彼女のジショウ

 

■ 凄く飛んだね

 

 

 

「私のこと覚えてる?」

 真の通った濃い声色。女性らしさからは程遠い。ハヤフジチヅルの第二声目はそれだった。しんと静まったアパートの一室にはコウイチの静かな息遣いだけが鳴っている。深夜とはいえ普段ではあり得ない静けさだった。

ハヤフジの言葉は脳みそに突き刺さるようにコウイチに衝撃を与える。コウイチは彼女の事を少なからず思っていたからだ。

「もちろん覚えているよ。忘れるわけないだろ」

 コウイチははっきりとそう言ったが、実際のところ彼女の記憶は曖昧だった。今この世界で唯一接点を持ってくれようとしている相手を失いたくない。ハヤフジと繋がりたい。コウイチはとにかく彼女にすがりたい気分になっていた。

――はっきりと覚えていない事を悟られたくない――そのような気持ちがいつもは口数の少ない彼を饒舌にさせる。

「ハヤフジさんだろ? ちゃんと覚えてるよ。高校の時にクラスが一緒だったよね。あの時はお互いに学生だったし色々あったよね」

 何もない記憶を必死に繕って会話しようとするが、普段人と会話の接点を持たないコウイチにはまるで曲芸の綱渡りの様だった。そして、あっさりと落ちる。

「何を言ってるの? 私とあなたには何もなかったわ」

 ハヤフジは突き放すように言った。事実、コウイチは突き放された気分だった。自分が全て否定されたような暗く沈む気持ち。死んでしまいたくなるような衝動に彼は駆られていた。

「なに言ってるんだよ。俺は覚えてるよ。教室で話したりしたじゃないか」

 コウイチの電話を持つ手が震えている。誰も見ていないのに作り笑顔がぎこちなく張り付く。彼は落ちながらも必死に何かないかと道化の様にもがいた。しかし、ハヤフジは、

「覚えてる、覚えてるって何度も言ってるけど、本当は覚えていない。私は嘘をつかれるのは嫌いなの。私に嘘はつけない。コウイチ、あなたのことは何でも知ってる」

コウイチの知られたくない胸中をあっさりと突いた。その言葉は鋭く彼の胸を抉る。友達付き合いも殆どなく家族とも疎遠になっているコウイチには辛い。自分の心の中を見透かされている妄想には何度も取りつかれたことのあるコウイチに、何も言い返せないほどの衝撃を与えた。ハヤフジが更に何か言おうとしているがコウイチは放心状態に近く、何も聞いてはいない。ただグルグルと後ろ向きなことだけを考えていた。

 その時、ボスンと小さな衝撃音がコウイチを現実に引き戻した。

 ゴロリとコウイチの手元から携帯電話が滑り落ちたのだ。ハッと我に返り、布団の上に無機質に転がっている携帯電話を眺める。チカチカと電子的に液晶が通話中を表示しているのがコウイチには不思議に思えた。

――誰とも会話していないのに通話中だなんて滑稽だな――コウイチは自分自身の境遇を無情な携帯電話に重ねて、自嘲気味に悟った風なことを考えることで何とか自我を束ねる。彼にとって全ての事が、人との関わりが全て無情に思えた。無機質なエゴとエゴが人と人の壁を打ち抜くように繋がっている。壁は作っても打ち砕かれる。作らなくても壁に阻まれる。

 コウイチが無為な妄想にふけようとした時、

パリン、ガシャリと再び衝撃音。

「なんだ?」

 妄想を止めて、音のした方向を見ると部屋にある唯一外に面した窓ガラスが割れていた。コウイチはやはりと思ったが、その原因については分からない。

 何かが起きる予兆と思えた襲撃はただの悪戯だったのか、部屋は再び静寂を取り戻した。静寂の中、割れた窓から風と虫の声が聞こえる。窓ガラスを破られるという事があったにも関わらず、コウイチは数秒の間何もせずじっと布団の上に坐していた。

 そして、ふと思い出したかのように、通話中になっている携帯電話を手に取った。

「もしもし」

 何事もなかったかのように落ち着いて相手に問いかけるコウイチ。だが相手も御したもので同じく冷静に対応する。

「外を見て」

 電話の相手、ハヤフジの言葉は拒否する言動を許さぬ重さが有った。決して攻撃的ではないが何か重大な秘密を打ち明けるときの様な神妙さがある。コウイチは彼女の指示に大人しく従うことにして重い腰を上げた。これ以上、ハヤフジを無視しても何も得るものは無いと思ったからだ。窓際に立ちながらコウイチは、

――得るものがないというのは間違いか。――彼女に関わらないことは、後ろ向きを選択することだと彼は思っていた。全てに前と後ろの選択がある。選ばないという事は、後ろを選ぶという事だ。コウイチは今までの人生で、全てを後ろ向きの選択肢を選んできたという自負がある。だがそれをいま反転させるも時期が来たという何か予言めいた確信を感じていた。

「どこだ?」

 壊れた窓を全開に開きながら、外を見ながら携帯電話に話しかけた。街灯がチカチカと点滅している。その下に彼女はいた。何も変わっていないと、ハヤフジを見てコウイチは思った。

 ハヤフジとコウイチはボロのアパートで窓枠を挟んで、ロミオとジュリエットのように向かい合う。いつまでも続くかと思われた夜の静寂だが、

「外へ続く扉を用意してあげたの。お礼を言いなさいよ」

 ハヤフジの言葉によって彼女による静寂が訪れる。傲慢な言葉とは裏腹に無機質な彼女の顔は風景に同化するように静かだった。ただ、ひたすらにハヤフジの言葉は彼の心に響く。コウイチは待っていた。彼女のような存在を。絶対的な守護者。いや、破壊者かもしれない。

――僕を、全てを壊してくれる存在。――待ち焦がれた存在を前に、コウイチは歓喜していた。本人は気付いていないが涙さえ流れている。

「飛びなさい」

 コウイチはアパートの窓から躊躇なく飛び降りた。

 


 

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